ブログ紹介

フィリピン・バギオ市在住 ㈱TOYOTAのブログです。旅日記・書評・メモなどなんでも詰め込むnaotonoteの文字通りオンライン版。
現在は英語学校 PELTHで働いています。過去のフィリピン編の記事は、学校のブログに転載しています。

2012-02-17

岡山城 / 後楽園


備中松山城見学のあと、もう一度岡山まで戻って市内見学。目指すのは、岡山城と、後楽園

岡山城

現在の岡山城の原型を築いたのは、宇喜多直家です。裏切りと謀略を繰り返し、ついに一国の城主の地位にまで上り詰めた「梟雄」として有名です。

当初、中国の覇者・毛利氏に属しますが、織田方が有利と見るやこちらに寝返り、岡山城は秀吉による中国攻めの前線基地として機能しました。

黒く染まった天守閣が印象的。また、近隣で「白鷺城」との異名をもつ姫路城とも対照的なカラーリング。

今回の旅では2日間で計6つの城を見学しましたが、天守閣が残っているのは、この岡山城と前述の備中松山城、姫路城のみ。姫路城は改修工事中だったので、今回の旅で見た城のなかでは、いちばん立派な天守閣です(ただし、昔から残っているものではなく、再建されたもの)。

■後楽園

岡山城のすぐ北に位置する後楽園は、日本三大庭園のひとつにも数えられる名園で、造営したのは江戸時代の池田綱政。池田光政の息子です。




冬だったので葉が落ちている木が多く残念だったのですが、これが春・秋だったらさぞや綺麗な景色が見れたことだろうと思います。



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2012-02-16

備中松山城

備中高松をでて、また吉備線 → 総社乗り換え、伯備線 → 備中高梁たかはし駅へ。目的はまたお城。備中松山城です。

■備中松山城

松山城は、日本100名城にも登録。愛媛など、その他全国の松山城と区別して、アタマに「備中」がつきます。山城で若干離れているので駅からバスで行こうかと思いましたが、この時期はあいにくシーズンオフ。タクシーで山の中腹まで登ります。


備中松山城は、「日本で一番高いところにある天守閣」として知られています。厳密には、現存する天守のなかで一番、だったかな。標高は約400m。これを登るのはけっこうキツイです。行きはタクシーでショートカットできたのでラッキー。ただ、城のある場所までは車道が続いていないので、約100mは自力で登らなくてはいけません。

息をきらせながら登山を続けると、城門がみえてきました。


そして、天守閣。

備中松山城は、戦国時代には紆余曲折を経て、中国一円をおさめる毛利氏の勢力化に入ります。前述の備中高松城とも近いことから、対織田軍との戦いではおそらく前線の基地として使われたのではないでしょうか。

関ヶ原の戦後は何度か城主を変えますが、城主の水谷家が断絶したあと、この城を預かったのは忠臣蔵で有名な浅野内匠頭でした。城番は、家老の大石内蔵助がつとめていまして、城の受け取りを担当したのも彼。その大石が、この数年後、松の廊下の事件をきっかけに廃絶となる赤穂藩のお城を引渡すことになるのはなんたる歴史の皮肉。

その後、松山藩は徳川譜代の板倉家の領有となり、幕末を迎えます。

城の中は資料館に。
高梁の街並みを一望できる。
見学を終えて、山を降りることに。

下山道の途中。城の
受け取りのとき、大石内蔵助
が座ったと伝わる岩
今度はタクシーもないので、歩いて帰ることになります。下山は、登ってきた道とは違う道を通ることになります。こちらの方が整備の程度が悪く、上りよりも歩きにくい感じがします。

登山は、登りのときは有酸素運動なので体力的に疲れますが、降りるときは、足に自分の体重が重くかかるので、筋力的に疲れます。

正直、山を降りきったときには足がガクガクいってました。登山道の入口に杖の無料貸出があったんですが、あれ、借りておけばよかった…。

徒歩で高梁の駅に向かう途中、みつけたのがこれ。


長岡藩・河井継之助の師匠として知られる陽明学者の田方谷ほうこくは、この備中松山藩の出身です(実はここに来るまで知らなかった…)。松山藩は藩主が徳川譜代・板倉家のため、賊軍となりますが、そのとき独断で松山城を無血開城させてのも彼。

いやー、それにしてもきつい登山だった。こんな城を攻めるってなったら、戦闘が始まる前に疲労困憊になることうけあいですね。


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